サイゼリヤ スープ入りトマト味ボンゴレのエチケット
先日はあさりうどんを勝手に戦わせました。
ほんと、あさりは美味しい。
ただ、私の唯一の家族であるジュンがあまりあさりを好きではないので、家であまりあさりが食卓に上りません。まして炭水化物&あさりという欲望あさり料理など…ああなんだかあさりがゲシュタルト崩壊してきた。
そんな私を手招きするメニューが、この春サイゼリヤに登場しました。
スープ入りトマト味ボンゴレ(¥499)です。
このメニューが始まる以前には、「スープ入り塩味ボンゴレ」があり、そちらが大変美味でありました。
さらに、私はトマトソースが大好き。
これは食べねばならぬ。
というわけで、数少ない外食の機会を見計らっておりました。
めちゃくちゃ期待して注文。
お皿が着いた瞬間に「あれっ?」な気持ちに。
香りがしない…。
塩味のボンゴレの方は、ボンゴレビアンコらしいニンニクの香りがしたのを覚えています。
トマトのボンゴレ=ボンゴレロッソであれば、やはりニンニクの香りがするもの、と思っておりました。その香りがしない…。
そわそわしながらいただきます。
…。
ニンニクの風味、なし。
…悲しい…。
緑の葉っぱはイタリアンパセリです。
風味を補うために入っているものと思われます。
でも、ボンゴレロッソのイメージ、というより、ボンゴレのイメージには遠く及びません。
しかも、これは店舗の問題か、ランチタイムという時間帯の問題か、麺が若干、柔らかくなっていました。トマトスープうどんを食べているような気持ちになりました。
あさりの豊かな旨味はあるのですが、がっかり感が強くて、満足感を得られることなくごちそうさま。
うーん。
ふと、うら若き20代の頃を思い出しました。
ちょうどパスタのブームで(そういえば「パスタ」という名詞が「スパゲッティー」を駆逐した頃でした)、一人で昼食をとりにパステルに入ったところ、メニューにニンニクの有無と辛さが書かれていました。
接客業に従事しているなど、お昼にニンニクの入ったものを食べるのが憚られる方はいらっしゃいますね。とはいえ、その当時は今ほど、昼食に食べるものにまでやかましくはなかったものです(焼き肉とかラーメンではさすがにニンニクを入れないようにする人が大多数でしたが)。
メニューにわざわざ表記があるのを見て、「ああそうか、ペペロンチーノとか食べちゃったら、人によっては臭いが気になるかも。そうか、私も昼食にニンニクの入ったものはやめておこう」と、自分の臭いを改めて気にするようになりました。若かったものですから。
えーーと、そうかんがえると、サイゼリヤのスープ入りトマト味ボンゴレは、食べても臭いを気にしなくてよい、エチケットに配慮されたメニューだということができます(強引)。
節約×生春巻~大根の皮炒め~
掃除も洗濯もイヤイヤやってます。料理もべつに好きではありませんが、多少やります。
先日書きましたように、我が家は貧しいです。
ですので、食材を大切に使って生きております。今日はそんなお話。
学生時代、私の愛読書は雑誌『主婦の友』でありました。
当時、週末に地域の図書館でアルバイトをしておりました。
利用者の途切れたタイミングは本を読み放題。隙間時間にちらっと読んで知識にする上で、主婦雑誌はもっとも私の興味を引くものでした。
主婦雑誌の主要なテーマのひとつが節約。これは『主婦の友』創刊の大正期から変わりません。私が熱心に読んでいた時期も、節約レシピは2号に1度は特集されていたように思われます。
その代表が、大根の皮のきんぴら。大根の皮と、大抵はニンジンの皮とを、あればベーコンと一緒にきんぴらにします。
何度も作ったのですが、いつも、「不味くないけどつまんない味だなあ」と思っていました。あまりにシンプルなのです。
あとね、こういう始末料理=食材を無駄にしない料理は、男衆に甚だウケが悪い。
作ったところで結局、自分一人で消費することになります。
そんなこともあって、私は「皮だけど、それ以外は節約と同じくらい自分の好きな味であることを大事にする」をテーマに大根の皮で遊んでおります。
今日は、挽き肉を味噌で甘辛いあんにして、それと大根の皮を炒め合わせてみました。
【材料】
大根の皮:半本分(千切り)
豚挽き肉:50g
みりん、酒、味噌、砂糖:各大さじ1。あらかじめ混ぜておく
好みで生姜すりおろし
フライパンに胡麻油を熱して挽き肉を炒める。
あんにしたい程度の水、合わせた調味料、生姜を入れ、米粉を入れてとろみをつけ、一旦皿にとる(米粉は水に溶かずそのまま振り入れればとろみがつくので便利です)。
ふたたびフライパンに油をひき、大根の皮の千切りを炒め、若干の水をいれたら蓋をして蒸す。
塩で「ちょっと薄味かな?」程度に味をつけ、皿にとった挽き肉あんを戻して炒め合わせる。
適当に作ってみたわけですが、これ、ご飯がススム君です。みりんと味噌の味付けはご飯を消失させる魔法です。
で、魔改造します。
必殺・納豆&生春巻。さらにキムチと、今回はエゴマの葉をプラス。
彩りを意識したわけですが、結果…
あーー。
なんつうかこう、柿の葉寿司?
でもね、やっぱりおいしいです。
みりんと味噌:ご飯消失魔法
納豆:ご飯殺し
キムチ:ご飯のブラックホール
ですから、米粉でできた生春巻が彼らに持って行かれないはずがないのです。
ごちそうさまでした。
案の定、男衆=ジュンは見向きもしてくれず(涙)他のものを食べて「お腹一杯」と食卓を離脱しました。
悔しい…。
入学式の季節
こんな経緯で、ジュンは入学式に出ていません。
親子そろって学校の前で記念写真、ということはもうできません。
亡くなった曾祖母(ジュンから見て)は、戦前に女学校を出て小中学校の教員を務めた方だったそうです。
ありえないたらればですが、ご本人に聞くことができたら、ジュンにはご自身の葬儀より入学式に出席するべきだとおっしゃったのではないかと想像してしまいます。
ちなみに跡取りなんて言ったって、とるような財産は数代前がとっくに食いつぶしています。 何をどう跡をとるというんだ…貧窮ド庶民の私には理解できない。
人の生き死には操作できるものではありませんが、それだけに、生者にとって大切な儀式を大切にしない人々にはいろいろ思うところがあります。
言葉にならない
ジュンと2人家族になって2年過ぎました。
とーちゃんを知る友人たちから連絡をもらいます。
ジュンは大きくなって、できることが増えて、生意気になりました。
私は…私はどうなんだろう。
花冷えのお陰で、今年の桜は長く咲いていますね。
2年前は春が遅くて、とーちゃんと別れた夜も桜が降っていました。
どうしても桜を見ると、色々物を思います。でもうまく言葉にならない。
私自身は、自分の研究のために、人にその人の人生の物語を聞いてきました。
プライバシーを掘り返して、その人の忘れたいほど苦しい記憶を尋ねます。その事自体が、私はとても苦しくて、話してもらうお願いをするのはいつも気の重いものでした。
聞いた後は内容を編集してご本人に見ていただくのですが、「自分のしてきたことが、こういうことだったのかと思えて興味深かった」と言っていただいたことがあります。
気を遣って良く言って下さっているのかと思っていましたが、もしかしたら本当にそうなのかもしれません。
経験や思いは自分だけで言葉にするのは難しいし(ということも、最近になって実感します)、聞いてくれた人が整理してくれることで、「その通り」と思ったり、「大筋あってるがそこは違う」と思ったりするのですね。
だからこそ、聞くことは緊張するし難しいけれど、楽しいことでもあります。
ゆっくりと、人の話を聞ける余裕がほしい。
シングルマザーは「男になる」べきなのか
「男になるんだよ」
見知らぬおっちゃんから言われた言葉です。
ひょんなことから(経緯を書いていたら長くなったし本筋に関わりがないので省略します)私たちが、とーちゃんがいない2人家族であるとお話しすることになり、「それじゃあお母さんは、男にならないとね」と言われました。
もやっとするものがありましたが、見知らぬ同士偶々居合わせての立ち話で、先様は拝見するところ70年配、しかもかなり酔ってもいらしたので、話を合わせていました。
その場からはジュンと私が先においとますることになり、ご挨拶をすると、その男性は酔いのために据わった目でじっと私を見ると、
うん、いま思い出してもこっちが恥ずかしいほど、酔っておられました。ご自分に。
頭の中にはきっと、寅さん的なテーマが流れておられたものと存じます。
また別の場面で、年配の知り合いとお話をしていたときにも類似の言い回しを聞きました。1960年代のこと、その知り合いのご親戚の女性がやはりひとり親となってしまった際に、“子どもたちに「もうあたしは男になるから」と言って頑張った”というお話でした。
言わんとすることはわかります。経済力つけなさいということです。
今現在、経済力も稼ぐ能力もない私には耳の痛い言葉でもあります。
それでもあえて問いたい。
ひとり親女性は男にならなければならないのか?
逆に言えば、ひとり親女性はそのままでは不足した存在なのか?
もっといえば、ひとり親はお金を稼ぐのが役割なのか?
続くかもしれません。